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天国を作る些細な力と、その眼差しと。

天国と地獄。


それらがどんな場所なのか、世の中にテンプレートこそあれど各々の天国と地獄があるんだろうなと思う日々です。


Netflixの細木数子さんのドラマ『地獄に堕ちるわよ』を見て、彼女の言う地獄が多分、私の思う地獄とかけ離れているなと感じた。


“地獄に堕ちるわよ!!”と言われても“効かないねぇ!!”と返せると思う。

実際に故細木数子さんに間近でそう凄まれたら、あとが怖いから(反社会的勢力との関係性が濃い方に目をつけられたくはない)会社員時代に頻繁にしていた困った笑顔ってやつで会釈すると思うけど。


強い私利私欲由来の山や谷はどこか遠くに感じるし、世間様が恐れて止まない一般的なルートから外れる人生みたいなものも、その上を随分前から歩いている。


たくさんのことや人に守られているのだろうお陰様で今のところ無事故無違反前科なしで42歳まで生き延びることが出来たので、きっと最低限の運はいい方なのだと思います。



細木数子さんのような強い原動力になる程の欲望も憎しみも悔しさも、そしてエネルギーも私にはない。

せめて人並みにと願い続けた結果、いつも群衆から弾き出されてしまう悲しさや寂しさを薄ら纏って生きています。


随分前にどこかの展示会で地獄という概念が中国から日本に輸入されてきたという解説と、何だか酷い状況を寄せ集めた地獄絵図を見て以来、あまり地獄というものへの恐怖も理解も薄れ、“効かないねぇ”と思うようになった。

世に言う地獄も天国も、いまいちピンとこなくなってしまった。


キリスト教徒やイスラム教徒との交友で体が焼かれること、遺体を焼くことがいかに宗教的にまずいかは理解している。


最後の審判の時に焼けてしまって肉体がないと魂が救済されないと彼らは言う。

私はいつか灰になって土還るのが素敵だと思うし、魂は生きている間に自分で救えるよう、少しでも癒えるよう、頑張ってみるつもり。

信仰を持つ人からしたら不遜に映るかもしれないし、充分人を不愉快に出来る考えだと理解してはいる。


前提がいくつも異なると信じるものも生き方も、結果も変わってくるんだろう。

そして何を望み、恐れるか、も。



それでも何故か、学生時代に触れたギリシア神話の冥界は未だはっきりと恐れている。

大きな玉を坂の上まで運んで、てっぺんまで行ったら落とされて最初からやり直す、を繰り返す罰や、底のない水瓶で水を救い続ける罰など、これらは本当に怖い。

そしてそれを日々やっている様に感じる人生を生きていて、度々人生が辛くて仕方ない時がある。

あぁ、これが煉獄ってやつかと。

厄介だなと。



自分に起きたことを人に話しても、共感してもらえるどころか信じてもらえず、一生懸命話してみるけど伝わらず途方に暮れてしまったりする。

いや、話せば話すほど、口の中に水が入ってきて、うまく喋れなくなって、溺れてしまう。


“ほんとに?”、“嘘だ”、“そんなことあるわけないじゃん”という言葉と態度は私を溺死させる。

信じられないようなことをこの身に受けても浴びせられるこれらの水に、自分には社会的信頼が足りないと絶望し、いつも苦しい。



これが私の地獄。



細木数子さんから見たら、さぞかし生ぬるい世界を生きていることでしょうけど。




あなたの地獄はどんなですか??






さて、次は天国の話を。



天国はどんなところだろうか。



正直物心ついた頃からずっと憧れていて、早くそこへ行きたいと思っている。


罰当たりなことを言っていると自覚はしているので、どうか怒らないでほしい。


死ぬな、生きろ、と言いながら皆どこかへ行ってしまうじゃない。軌道の似た惑星同士で自転公転しながらさ。


私は多分彗星か何かで、別の何かを軸に忙しくどこかへ向かっているから、この宇宙を誰かと一緒に歩くということはない。

時々ランデブーこそあれど、死に向かって溶けながら、ただ暮らしているんだと思う。

生まれながらの性質なのか、後天的に体得した性質なのか、ネガティブな思い込みなのかはわからないけど、通りすがりに生き死にに口を出されたくはない。

私の他者に対する態度で、命への敬意は伝わっていると信じたい。



事故などで一命を取り留めた人に聞くと、口々に“すごく気持ちのいいところで、ずっとここにいたいと思った”と言う。“呼ばれたから仕方なく戻った”と。

そして三途の川はやはりあるらしく、インド人もそのような川を見たと言っていた。

少し意外だったけど、きっと潜在意識にガンジス川がいつも静かに流れているのだろう。



私はロシアのユダヤ人画家、イサク・レヴィターンの描いた『Over Eternal Peace』が心象風景であり、私の天国のイメージにも近い。いや、どちらかといえば死後の世界にかもしれない。


中国のアニメーションなどで見る神々、精霊などの天界の世界も優美でいいなぁと思うものの、色々起こりすぎてて現役感があり過ぎる気もする。


花々が咲き誇りどんな時代の親族にも会えて何もかもがふわふわと柔らかいあの世は良さそうだけど、やっぱり天国すぎる。


凪の海や川を渡り向こう岸で静かに眠る。というのが今の私にとって妥当な天国なのだ。



20年くらい前に、ヨガのティーチャーズトレーニングに通っていた頃、先生か有名なヨギーかが言っていたことを思い出す。


“天国も地獄も実は環境はそう変わらない。

皆、大きな大きな円卓に付いていて、たくさんの食べ物と長い長い箸がある。

地獄では皆自分で食べようと長い箸を振り回して周りと争い、自分の口に食べ物が入ることはない。

天国ではその長い箸で向かい側の人たちの口に食べ物を運んであげて、自分も向かい側からそうしてもらえるから満たさている。”



これを聞いて、天国は作れるんだなと思った。

生きてるうちでも作れるんだなと。


そこから私は天国に近い方をなるべく選んで、時に力みつつ、またある時はごく自然に天国を作った。


所詮私のごっこ遊びや綺麗事で、天国作りの意図が伝わらないことや感謝こそされても、そういった善意はあまりに透明でわかりにくく、数えにくく、金銭になどもちろん反映されにくく、悔しい思いも何度もしてきた。


電車に乗る時に入り口だけが混んでしまうのを解消するために座席のある奥中程まで行くようにするのも、天国を作るために私が取れる行動の一つ。

ほんのそれだけのことで身動きが取れる人が増え、さっきよりも安心してそこにいられるという、小さいけど結構大事なこと。


出入り口で自分の後にあと5〜7人は乗れるよう配慮してスムーズに乗り込むのも、席や道を譲るのも、地獄みたいな車内を少しでも天国に近づけるためにしている努力だったりする。


これらの行動は自己満足なので押し付けがましく周囲に強要したりしないけど、大きな音でくしゃみをするおじさんのことは正直、本気で引っ叩こうか迷うことがある。


そういう小さいことが地獄を作ってるんだよ!!と、口で言っても伝わるわけがないとわかっているので物理しかないのではないかと思ってしまう。


今の所手は出していない。その瞬間私が地獄を作ってしまうから。

でもその我慢がまた少し地獄に近づいてしまうから、どちらにせよ他者と共有する公共の空間というのはストレスフルなので、それ自体避けたいと徒歩で行ける勤務先を選んだり、せめて帰りだけでもそのストレスから逃れたいと8km歩いて帰るような人間だったりします。



大きなことじゃなくても、些細な力で案外天国を作ることが出来る。

厳密さは置いておいて、そういう眼差し、視座を持てたら、パワハラ、セクハラ、カスハラ等は絶対にしないはずなんですよ。


我らは一挙手一投足である程度人を天国にも地獄にも行かせることが出来るんだと思う。

とんだ拡大解釈だと言う人もいるだろうけど、些細なことの積み重ねで少しずつ人は良くも悪くも傾いていく。


多かれ少なかれ他者に影響力を持つ私たちは!!

天国方面に!!

その些細な力を使いませんか!!


いまここで自分の言動が!!

ここを天国に近づけるか、地獄に近づけるか!!

一旦思考する、その眼差しを、視座を!!

あなたのものにしてください!!




そしたら、“地獄に堕ちるわよ”なんて言われたってね、“効かない”んだよ。



私も改めて、少しずつ、この部屋も、心身も、生き方も、他者が介在しないところでも、天国に近づけるよう、小さな選択を重ねられるよう襟を正します。




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