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広尾稲荷神社と境界の魔女

更新日:4 日前

皆さまはお好きな神社、よくお参りする神社はありますか??


私は広尾稲荷神社によく行きます。


特に個人事業主になった2018年末以降、広尾方面に用事がある際には時間があると立ち寄っています。


銀行関係のことを済ませてからお参りしたり、年末年始、また、状況が動かずモヤモヤしている時や、自分の努力だけではどうにもならなそうな時など。

日頃のお礼を言ったり、近況を報告したり、悩みを一方的に打ち明けたりしています。


とても静かで、神社ならではの澄んだ空気があり、その上、社務所の方がめちゃくちゃ優しいです。


YouTubeのワンピース考察や都市伝説で人気のコヤッキーさんが紹介したこともあり一時静かに賑わってもいたこの神社。

天井の龍の絵が有名で、社務所の方にお声がけすると靴を脱いで中の見学をさせてもらえるそうです。



こちらの神社のには竈門守りのお札があり、イスラエルのレストランのベーカリー担当になった頃から毎年いただいています。


台所の守り神ということでベーカリーを辞めた後もキッチンの仕事などしていたこと、数年間、竈門の神様にお守りいただいた感謝や親愛の情などもあり、今後ともお世話になるつもりです。


美味しいものが安全に作れて、それが食べてくださる方々に安全で美味しく提供できますように。


この願いは口に入れるものを作る人間にとって切実で時にヒリヒリとした緊張感のあるものだと思います。


長くなれば慣れそうなものですが、逆にこの緊張感は高まっていくものかもしれません。


少し竈門の神様にお力添えいただきたいという気持ち。




前々回の記事で近況を報告した際に、神社での体験を少しだけ書きましたが、今日はその話を詳しく書きたいと思います。




2025年の4月のよく晴れた日。

出稼ぎ先をたまたま昼過ぎに退勤し、チャンスとばかりに広尾稲荷に寄って帰った時のこと。



その頃、サロンの他にも2か所出稼ぎをしていたので毎日毎日働いていて、


“正社員になれば最低でも週2日は休めるのか…”


“てか最近の正社員は私の知っている正社員じゃない。明らかに労働環境は良くなってるしパワハラ、セクハラ、カスハラが認知されて断罪され始めてる。こっちはもう傷つき終わってんのに。今更とは思ってもそんな環境なら今度は昔よりは安心して長くいられるかも??”


“人手不足で業界によっては売り手市場の今のタイミングで正社員になっちゃった方がいいよね?年齢的にも最後のチャンスだし。”


なんて思いながらも、製パンなら人生の時間を捧げても惜しくないという純な気持ち(本当に)でベーカリーの正社員に応募して一社内定をもらっていた状況でした。



ですが、その会社。現場は良さそうなのですが、大元の会社の話が二転三転していてどうも信頼できず、内定を辞退しようかと悩んでいました。


また、他社の週4日勤務の正社員募集に心を引かれていました。


境内で手を合わせながら、そんなごちゃついたご報告をし、


“他にももっと色々あるのかもしれないし、本当は調理ももっとやりたいし、郷土料理や郷土菓子のお店とかもっと探そうかなー。てか決められないなー。でもまぁさすがに決めてくれとは言えないから、せめてヒント、ヒントでいいからください!!”


とお願いをし、鳥居の方へ向かって帰ろうとした時。


目に飛び込んできたのは、とある絵馬でした。




“○○○と結ばれますように。”



(たしかきょうこ、りょうこ、ようこあたりの30代後半くらいの女性のお名前。)


付き合えますように、でも、結婚できますように、でもなく、


“結ばれますように。”



これは間違いなく中年男性だ。

こんな表現はいまや中高年しかしない。


うっかりロマンスが溢れたのか、彼らには恋のハードル(法や環境、諸々の事情)があるのか、男性も奇跡に縋るような表現を無意識に書くほどの片想いなのか。


思いつく全ては結局邪推の域を出ず、その絵馬を見てしまった口直しに、進学や結婚の祈願、家族の幸せを祈ったり、健康を願う絵馬を見ていたら…


少し下の段、1番手前に自分が今年のお正月に書いた絵馬がかかっていたのです。


4ヶ月も経っているのに、1番手前というのも不思議な話。これは偶然か必然か。



絵馬には手舞足踏のことを、まさかの箇条書きで祈願していました。

(絵馬は願いをひとつふたつ書くスタイルが多い模様。)

絵馬を見ながら、この願いと向き合えていなかったこと、そんな心の余裕も時間もなかったとはいえ、他の誰も代わってはくれない、自分でしか叶えられないことから目を離してしまったこと。

心中は苦く黒い泡で膨れました。


と、同時に、まずはこの願いのために自分の人生の時間をもっとしっかりかけることをしなければならない。

よそで働いてお金を得たり、居場所を作ったり、社会的な安心感を得たり、も今の私には大事だけど、時間や体力があるうちに1番の難問である自分とその人生に向き合わなければ…



そう。広尾稲荷は祈って1分も経たぬうちにヒントをくれたのです。


結果、内定は蹴り、選考中の会社への履歴書は送る気にならず、来ていた仕事を懸命にしているうちにその選考に落ち、がっかりするどころか夜勤を免れたとホッとし、自分の仕事のシステムの再構築に取り組むことにしました。


とはいえ、40を過ぎてもアウトサイダーやストレンジャーとして生きていくのは心身ともに辛いもので、覚悟の一歩手前でしばしうろちょろする日々が続きました。



そんな時に、東畑開人先生の『令和の深層心理入門』

の第一回目を受講。


心理学者の先生方は大概、シャーマニズムや呪い、占いの類に否定的ですが、東畑先生は最初に行った沖縄での臨床経験でユタさんの影響力に驚き、スピリチュアルな世界を知り、ヒーラーさんに弟子入りなどをしたそうです。

後にそのシャーマニズムの研究と体験をテーマにした『野の医者は笑う』という著書を2015年に出版。


とてもユニークな先生でお話も軽妙でユーモラス。


中でも魔女狩りと精神病院のお話がとてもおもしろかったです。


中世は森といえば異界であり、怖いところ。

その森の中にはシャーマニックな民間治療の担い手である魔女が住んでいる。が、森の奥深くというより、歩けば辿り着ける程度の街寄りの森。


街という社会から少し距離を取って社会の色の薄まる森で暮らしながらも、街の様子もわかっている。

そして社会から少し離れて治療に来る病んだ人の力になってきた。


やがて魔女狩りが行われて魔女がいなくなると、そこには精神病院ができるという。



境界人/マージナルマンは何かと何かの間や境界にいて、例えば街と森、病んだ人と健康な人、大人と子供、など異なるふたつの価値観や状況の両方の側面をもっていたり、その間に存在する。


そして、こんな講座を受けるような“何かある”ひとは異なる価値観の間で揺れ動きながら生きればいい、少し街を離れながら。


というエールにも似たお話でした。


セラピストは境界人として生きて、その都度悩みながら目の前にいる人や状況に最善を尽くしていけばいい。


街の目で森を見て、森の智慧や感性を街に返せたらいい。


私とて街に馴染んで、就職して、堂々社会の一員として生きること、年齢相応さや、社会的通過儀礼(結婚、出産、子育てなどなど)を経ることやポジションの獲得に未だ少し憧れますが、森で得た知識や感覚をこれからも深め、少し離れたところで社会と関わっていく人生の覚悟が、この講義を受けて、やっとついたのでした。



というわけで、街の暮らしに疲れたら、電車に乗って白金高輪から徒歩7分の浅い森、手舞足踏に是非お越しください。



広尾稲荷神社にも是非行ってみてくださいね!!


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